球ひろいをしていた太田少年
中学校で球ひろいにもどった太田少年
そんな太田少年の「球ひろいだった少年の物語」第4話です。
過去第3話まではこちら
野球好きの父の影響で、プロ野球選手になることを
夢見て始めた野球。
でも、好きと上手いはイコールではなく
投げ方を直さないといけないくらい
下手くそな太田少年。
父のアドバイスで野球の本を読み
投げ方を直すがコントロールまでは
直らなかった。
球ひろいに逆戻りした太田少年は
プロ野球選手を夢見て球ひろいする。
そんな太田少年が2年生春にはピッチャーに
使われるが、ノーコン病発症で大事件に
4ヶ月の試練が与えられる。
そんな試練を乗り越えると
そこに救世主が現れる。
救世主のおかげで「コントロール」という
武器を太田少年は身につける。
その身に着けた武器を
毎日毎日、磨き上げ、切れる武器に
仕上げた。
その磨き上げた武器を身体にまとい
太田少年は中学生最後の大会へと向かう。
秋田市の大会優勝、県大会優勝と
順調に勝ち進んだ。
太田少年は、ファーストとピッチャーの
兼用で使われたが、
ピッチャーはエースがほとんど投げていた。
ただし、それぞれの準決勝は太田少年が
先発し、完投勝利を収めている。
「大事な試合は太田に投げさせる。
調子がいいのもあるが、守備で使うには
不安がある。」との理由。
実は、守備も下手くそだったのだ(汗)

だから、大事な試合で1点を争うような
対戦相手には必ず太田少年が先発した。
チームは予選を勝ち上がり、東北大会へと
駒を進め、東北大会でも危なげない勝ち方で
全国大会の切符をゲットした。
全国大会では調子のいい方を先発で使う
という方針であったが
先発に選ばれたのはエースの彼だった。
試合は、チームが大量6点を奪い
楽勝ムードだったが、
4回に突如エースがつかまりだした。
4回、5回で一気に5点取られ
1点差にまで迫られていた。
そこで、監督は太田少年を起用する。
太田少年は持ち前の強気と
磨き上げたコントロールと
スピードを武器に
相手打線を凡打の山に築き上げる。
見事、リリーフ成功。勝利した。
次の2回戦、準決勝と
太田少年が先発完封勝利を収めた。
さすがに連投の疲れがピークに
達していたが、
チームは流れを変えるわけにはいかず
太田少年を決勝戦でも先発に起用。
監督の采配はあたり、6回までおわり
2対0で残すは最終回。
これをおさえれば念願の全国優勝だ。
太田少年は最後の力を振り絞って
最終回のマウンドへ。
1アウトを取ったところから徐々に
コントロールが甘くなっていく。
ランナーを1人出し、また1人と
1アウトランナー1,2塁。
太田少年ここで痛恨のレフトオーバーの
タイムリーヒットを打たれる。

1塁ランナーが戻ってくれば同点。
絶体絶命の時、【ミラクル発動】
なんと、【中学生が】レフトオーバーの
ワンバウンドでフェンスにぶつかった
打球を、レフトからショートの
ワンカットで1塁ランナーをホームで
刺したのだ。

誰も想像できない【ミラクルリレー】が
完成した瞬間だった。
このミラクルプレーのおかげで失点を1点に
おさえることができ太田少年のチームは
全国優勝を成し遂げた。
チームは後に
第32回河北文化賞を受賞している。
その見出しには
「初出場で見事優勝
中学生離れした中継プレー」
と記されている。
そのインタビューで監督は
こう答えている。
“「昨年全国大会を視察した結果
負ける原因はほとんどが失策か
四球。特に暴投は命取りになる。」
そこで、チームに戻ってから
正確なスローイングを身に着け
させるために、レギュラー全員に
バッティングピッチャーをさせた。
こうした練習の成果が決勝の7回
に中学生離れした中継プレーで
ランナーを刺し、相手チームの
監督を「参った」とうならせた
ものだ。”
引用(昭和58年1月1日河北新報より)
球ひろいだった太田少年は
見事全国優勝投手になったのである。
その後太田少年はどうなっていくのか
最終回へつづく
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